2006年4月 5日 (水)

京都の新撰組 城南宮

神功皇后のいくさ船の上に立てた御旗を八千矛神らの神霊と合わせ祭ったのが始めと伝えられ、桓武天皇の平安遷都に際し、平安京の守護神とされ816年に官社となった。平安城の南方に鎮座するところから城南宮と呼ばれた(立て札より抜粋)。方除けの神様として有名です。鳥羽伏見の戦いで、官軍(薩摩・長州・土佐)が鳥羽においてこの辺りに陣を置いたとされている。

境内自由 (神苑500円)

―鳥羽伏見の戦い―
1868年、1月3日・4日に鳥羽伏見で薩長土連合の新政府軍と幕府軍とが大激戦を繰り広げました。世に言う、鳥羽伏見の戦いです。幕府の大政奉還の奏上、朝廷の王政復古の令の直後、朝廷側が決定した第15代将軍慶喜の辞官、納地(一切の官職と幕府嶺の返上)は、幕府を怒らせ、京へ攻め上がって参りました。新政府軍はこれを鳥羽伏見で迎え撃ち、伏見では一大市街戦が展開され、幕府軍は敗れ、淀、大阪方面へ退去しました。

境内自由

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2006年4月 4日 (火)

京都の新撰組 法伝寺

当初は真言宗であったが、1360年知恩院11世が当寺に来た折に浄土宗になった。山門には「戊辰東軍戦死者之碑」が立っている。この地は東西両軍の激戦地となり「堤上死骸粉々、路を塞ぎ、いくべからざるなり」と当時の記録が残っている。又、当時の砲弾などが保管されています。

境内自由

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2006年3月30日 (木)

京都の新撰組 寺田屋

船を待つ客が泊まった船宿。幕末時代、坂本龍馬がよく薩摩・長州との連絡に利用した。龍馬と妻お龍の出会いの場所であり、二階には龍馬が投宿した「梅の間」がいまもそのままに保存されている。

入場料:400円

近鉄 「桃山御陵前駅」→13分、京阪「中書島」→徒歩6分

<寺田屋騒動>
1862年4月23日夕刻、薩摩藩の島津久光が上洛の途についたことをきっかけに、先陣として寺田屋に集結したのが薩摩精忠組ら35名。関白九条尚忠と所司代酒井忠義殺害を企てたが、島津久光の命をうけ、決起をとりやめるよう説得にきた奈良原喜八郎ら9名とお互いに争闘し多くの犠牲者をだした。

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2006年3月29日 (水)

京都の新撰組 魚三楼

鳥羽伏見戦の弾痕跡が生々しく格子戸に残っている。1764年に初代、三郎兵衛が讃岐から上洛し、料亭をはじめた。(現在も営業しています) 御香宮に陣を置いた薩摩藩の炊事方を勤めた。

近鉄桃山御陵駅下車すぐ

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京都の新撰組 御香宮神社

祭神は、神功皇后・仲哀天皇・応神天皇など9柱を祭る。社伝によれば、862年、境内から清泉が涌き出てその香気が漂い、その水を飲むとたちまち病がいえたので「御香宮」を賜った。

鳥羽伏見戦の際、伏見の官軍の前線基地が置かれた。境内には明治維新伏見戦跡の碑が立ち、戦死した井上源三郎ら24名の新撰組隊士の殉難者名簿も所蔵されている。

近鉄電車桃山御陵前下車、徒歩約3分

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2006年3月28日 (火)

京都の新撰組 藤森神社

203年に神功皇后が兵具を納め塚を造って神として祭られたのが始まりと伝えられている。又、勝運と学問の神社として信仰が深い。

境内にある「いちいの木」は腰痛に効くといわれており、近藤勇ら新撰組が通っていたといわれている。又、新撰組の近藤勇が伊東甲子太郎が率いる「高台寺党」に狙撃され負傷したのはこの藤森神社の西門を出た辺りだといわれている。

境内自由

京阪電車墨染駅下車、徒歩約10分

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2006年3月27日 (月)

京都の新撰組 金戒光明寺

通称「黒谷さん」。浄土宗鎮西派の寺。1175年浄土宗の開祖法然上人が比叡山を出て白川の地に庵を結んだのが始まりとされている。会津藩主・松平容保が京都守護職として上洛後、最初にその本陣を置いたところ。(京都守護職屋敷は後に現在の京都府庁の地に移転)新撰組局長近藤勇・芹沢鴨が拝謁した。境内奥には会津藩殉難者の墓地がある。

境内自由

JR京都駅から市バス206番で熊野神社前下車、春日北通を東へ徒歩約10分

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2006年3月24日 (金)

京都の新撰組 梁川紅蘭・鴨祈小隠跡

美濃国生まれの紅蘭は同郷の漢詩人梁川星巌に惹かれ夫婦となった。 鴨祈小隠と称した住いで西郷隆盛ら勤皇の志士と交わり次第に尊攘運動に傾倒していった。 安政の大獄で半年獄舎に入ったが、同志の名や謀議の内容は頑として漏らさなかったといわれている。76歳の天寿を全うし、南禅寺塔頭天授庵に夫とともに眠っています。

頼山陽邸跡から丸太町橋を渡り川端通りを北へ曲がった東側に碑が立ってます。

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京都の新撰組 山紫水明処 国指定史跡

幕末の政局にも大きな影響を与えた史書「日本外史」を顕した江戸後記の儒者・頼山陽が「山紫水明処」と称した住居跡。現在も子孫の頼新氏によって管理されており、申込みをすれば拝観可能です。四畳半と二畳だけの小さな家だが、東屋風の茅葺き天井の優雅な作りであり、すぐ前に鴨川が流れ、東山連峰を望む絶景の地であった。

拝観予約の申し込みは往復はがきに「希望日時・人数・電話番号・住所・氏名」を記載の上、下記住所に送ってください。とありました。

京都市東山区新門前松原町 頼 新様宛。尚8月・12-3月は休みです。

JR京都駅から市バス17番で河原町丸太町下車、丸太町通りを東へ、丸太町橋に差し掛かる手前の三本木通りを左折(角に碑があります)。すぐを右へ曲がり突当たりを左に折れてすぐです。

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2006年3月23日 (木)

京都の新撰組 清浄華院

860年、清和天皇の勅願により、慈覚大師が御所内に御内仏殿の造営に着手し、864年落成、禁裏内道場として発足したのが始まり。はじめ天台宗であったが、のちに、後白河天皇が法然上人を住持としたところから浄土宗に転宗した。墓地には猿が辻の変の犠牲者 姉小路公知卿の墓があります。

梨木神社から寺町通りを北へ約2分です。

―猿が辻の変―
1863年5月20日夜、尊王攘夷派公卿の急先鋒であった姉小路公知がここで刺客に襲われた。享年25歳。現場に遺棄された刀の銘などから、薩摩の田中新兵衛のものと判明町奉行の尋問の最中、田中新兵衛は自害。 田中と同宿していた同藩の仁礼源之丞と藤田太郎の二人も逮捕されたが、脱走して行方不明となった。かくして、姉小路暗殺の真犯人は未だ不明のままである。

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2006年3月22日 (水)

京都の新撰組 梨木神社

三条家旧邸跡。明治維新の功臣三条実万を祭る神社。三条実万は光格・仁孝・孝明天皇に仕え、幕末の際には、朝権の回復に努めた。三条実美は実万の第2子として1837年に生まれ、父の遺志を継いで長州藩の攘夷派と提携し、朝権回復攘夷断行を主張し尽力、姉小路公知とともに尊攘派公卿の中心人物となった。

境内自由(染井と呼ばれる名水が涌き出ています)

JR京都駅から市バス17番で府立医大病院前下車、徒歩約3分

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京都の新撰組 古高俊太郎邸跡

1864年6月、新撰組の家宅捜索を受け、逮捕され、池田屋事変勃発の端緒となった。近江国の出身で、早くから尊王の志を抱き同志の庇護や連絡に尽力した。禁門の変に際して他の同志とともに斬殺処刑された。享年36歳。

本間精一郎遭難跡から高瀬川沿いを南へ行き、四条通りから一筋北の通りを西へ行くとあります。約2分

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2006年3月21日 (火)

京都の新撰組 本間精一郎遭難跡

越後国の郷士の生まれ。尊王攘夷派有志と交友し、活躍したが、寺田屋事件以後、公家と接触。しかし、その派手な行動が尊王攘夷派から猜疑の目で見られ、武市半平太の指示によって暗殺された。享年29歳。

近江屋跡から蛸薬師の信号を東へ渡り、河原町通りを南下します。一筋目を左折(東)、高瀬川に出たところです。

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2006年3月20日 (月)

京都の新撰組 近江屋跡

1867年11月15日、醤油屋近江屋方、2階で懇談中の坂本龍馬と中岡慎太郎が見廻組に襲われ坂本はその場で慙死、中岡は重傷を受けて2日後に絶命した。上洛の際に利用していた酢屋宅が危険ということで移り住んでいた矢先であった。坂本享年33歳、中岡享年30歳。

酢屋の前の道を西へ行き、河原町通りに出ます。河原町通りを南へ走り、蛸薬師通りを越えて河原町通りの西側にあります。現在は京阪交通社になっています。

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2006年3月15日 (水)

京都の新撰組 酢屋嘉兵衛宅・海援隊屯所跡

1867年6月15日、上洛した坂本龍馬がこの酢屋嘉兵衛宅に投宿して以来、ここが海援隊京屯所として利用されている。現在はみやげもの屋になっています。2階に坂本龍馬の資料などが展示されています。

佐久間象山遭難之碑から高瀬川沿いを南に行き一筋目を右折して直ぐです。

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京都の新撰組 佐久間象山・大村益次郎遭難之地

佐久間象山は信州松代藩の出身で、儒学や朱子学を修め、西洋科学の導入で日本の殖産興国に尽力しました。彼の塾からは勝海舟・吉田松蔭・坂本竜馬らの傑物を輩出しています。1864年に上洛し、開国論を唱えて公武合体に努めた為、同年7月11日に刺客に斬殺されました。襲撃した人物は肥後の河上彦斎(げんさい)、隠岐の松浦虎太郎といわれています。享年54歳。

大村益次郎は長州藩出身で医学を梅田幽斎に学び、さらに緒方洪庵の適塾でも学んで兵学者となりました。長州藩の軍事指導者として活躍。維新後、兵部大輔に任命され近代兵制樹立に尽力しました。しかし廃刀論で士族の反感を買い、明治2年この地で反対派士族に襲われ、同年敗血症で死去しました。

三条通と木屋町通の北角に石碑が立ってます。

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2006年3月14日 (火)

京都の新撰組 桂小五郎

明治維新を成し遂げ近代日本の礎を築いた桂小五郎(1833~1877)は長州藩士吉田松蔭の門下生。長州藩屋敷の当所にその像を建立し事績を顕彰する(立て札より)。京都ホテル・オークラの河原町通りに面して建てられている。西郷・大久保と並び、明治維新の三傑の一人。薩長同盟締結など多くの功績を残している。明治15年5月、病に倒れ、明治天皇の行幸を仰いだのち死去。松子夫人(もと三本木の名妓幾松)とともに霊山護国神社に墓が建立され眠っています。

高瀬川沿いを御池通りから少し上がったところに料亭・幾松があります。名妓幾松と桂小五郎が当時住んでいたところです。

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2006年3月13日 (月)

京都の新撰組 料亭・一力亭

新撰組近藤勇が公武合体派と会合を持ち、ここで時勢論を述べたといわれている。現在も営業しています。見学のみで入ることは出来ません。

花見小路通りと四条の角にあります。

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2006年3月 9日 (木)

京都の新撰組 翆紅舘跡

元々は西本願寺の別邸。1863年1月27日、土佐藩武市半平太、長州藩井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まり、さらに、6月17日にも長州藩桂小五郎らが集まって攘夷の具体的な方法が検討された。世にいう翆紅館会議である。現在は料理旅館京大和になっている。護国神社の鳥居を潜って直ぐです。

JR京都駅から市バス206番で東山安井下車、徒歩約5分

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2006年3月 8日 (水)

京都の新撰組 月真院 御陵衛士屯所跡

新撰組から分離した伊藤甲子太郎一派が1867年6月より高台寺・塔頭 月真院を活動拠点とした。以後、高台寺党とよばれるようになる。1864年江戸において、新撰組の隊士募集に応じて上洛した伊東甲子太郎は参謀として迎えられたが、勤王派の伊東と公武合体派の近藤勇は相容れることが出来ずに、孝明天皇御陵衛士を拝命することをきっかけに分離脱退し、月真院に移った。後に新撰組によって暗殺されることになる。

JR京都駅から市バス206番で東山安井下車、徒歩約8分(ねねの道中程に有ります)

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2006年3月 7日 (火)

京都の新撰組 坂本竜馬・中岡慎太郎

土佐の郷士格の家柄に生まれた龍馬の幼少時代は、21歳離れた長兄、19歳離れた長姉と3歳上の乙女らから可愛がられ過保護に育てられた実に軟弱な子供であったといわれている。一方、中岡慎太郎は龍馬より3歳年下で、土佐安芸郡北川村の庄屋のせがれで、神童の誉れ高く、文武両道の秀才であったといわれている。龍馬1835年生、慎太郎1838年生。幕末を生きた二人の像は御所に向いて作られています。

JR京都駅から市バス100,206番で祇園下車、円山公園にあります。

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2006年3月 6日 (月)

京都の新撰組 高山彦九郎

群馬出身。18歳の時以来、上洛すること5回を重ね、その都度、 京都御所に向かって拝礼をしたといわれている。(像は御所に向いて作られています)。尊王論を広めようとしたが、幕府の監視や圧迫をうけ、1793年6月27日、47歳のとき久留米で自刃した。三条大橋東詰にあります。

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京都の新撰組 三条大橋西詰・制札事件

制札(高札)を抜こうとして新撰組と土佐藩士が斬り合いになり、土佐藩士に3名の死傷者が出た。制札には禁門の変で敗れた長州藩の罪状が書き並べられており、土佐藩士の中の過激派が暴走したようである。現在はスターバックスになっています。

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2006年3月 3日 (金)

京都の新撰組 上善寺

浄土宗鎮西派。山号は千松山遍照院。禁門の変で戦死した入江九一ら長州藩士8名が葬られている。上善寺の書院は松平春嶽公が上洛の際に宿営され、薩摩の小松帯刀や大久保・西郷らとの密会場所であったといわれている。

境内自由

地下鉄烏丸線鞍馬口下車、鞍馬口通を東へ徒歩約10分

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2006年3月 2日 (木)

京都の新撰組 藤井右門邸宅跡

江戸中期の尊王論者で皇学所教授として公家に尊王論を説いた。 幕府の尊王論者弾圧で1767年に処刑された。 それから百年のあと、幕末の尊王志士に受け継がれ右門宅は西郷・大久保・桂ら勤皇の志士達が集まり倒幕の密議の場となったともいわれている。

相国寺から西へ烏丸通りに出て上立売通りを北へすぐです。約2分。

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2006年3月 1日 (水)

京都の新撰組 長州藩墓所

禁門の変で幕府軍と戦い戦死した長州藩士20数名が葬られています。禁門の変での長州藩士の戦死者は約200名にも上るといわれているが、その内の20数名の遺体がここに葬られた。

相国寺境内にあります。

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京都の新撰組 養源院

相国寺塔頭。1868年、島津忠義が英医ウイリアムを京都に招請して、鳥羽伏見の戦で負傷した薩摩藩士の臨時病院となった。

相国寺境内にあります。

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2006年2月28日 (火)

京都の新撰組 相国寺

臨済宗相国寺派本山、開山は夢窓疎石。足利義満が座禅修業の寺院として1382年に創建。相国は太政大臣の唐名で、足利義満が太政大臣になったのにちなむ寺号である。幕末の相国寺は御所の北隣という立地から幕府や朝廷と係わり合いが深い。

1859年 安政の大獄で尊融法親王が将軍慶喜擁立のかどで相国寺桂芳軒に永蟄居

1862年 薩摩藩が第3の藩邸として相国寺寺領地6946坪を借地し建設(現在は同志社大学)

JR京都駅から市バス17番で河原町今出川下車、徒歩約12分、薩摩藩墓所から西へ約2分です。

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京都の新撰組 薩摩藩士墓所

相国寺塔頭・林光院墓地。足利義嗣の牌所であるが、島津家とも縁が深いことから、禁門の変と鳥羽伏見の戦いなどの薩摩藩戦死者72名が葬られている。

塔頭―本来は禅宗で祖師などの墓のほとりに建てられた塔、あるいは墓を護持するために建てられた小さな庵をさす言葉だったようです。現在では広辞苑には「山内にある小寺院、大寺に所属する別坊。寺中。子院。わきでら」と解説されています。

JR京都駅から市バス17番で河原町今出川下車、徒歩約10分

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2006年2月27日 (月)

京都の新撰組 二条城

1603年、徳川家康が京都における居館として造営したもの。1863年将軍家茂が上洛して二条城に入り(この時のちの新撰組となる浪士隊が結成され、将軍警護に同道した)次いで、1867年10月、徳川慶喜が大政奉還を城中から発表し、武家政治の幕が閉じたのである。

地下鉄二条城前下車すぐ

拝観料:600円

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2006年2月24日 (金)

京都の新撰組 蛤御門

禁門の変では、この門が最大の激戦地となり、現在の門にも当時の弾痕が数多く残っている。新在家御門ともいわれ、元は開かずの門であった。天明の大火の際初めて開けられたので「焼けて口あく蛤御門」といわれた。

猿が辻から塀沿いに西へ走ります。烏丸通りに面してあります。徒歩約10分

禁門の変―1864年7月、京都での尊王攘夷派の勢力挽回を策した長州軍と京都を守る会津・薩摩藩を中心とする公武合体軍との武力衝突を禁門の変といい、元治甲子の変または蛤御門の変ともいう。この時飛び火した火の手は、洛中の3分の2を焼く「どんどん焼け」となり、市民に大きな損害を与えたといわれている。

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京都の新撰組 猿が辻の変

1863年5月20日夜、尊王攘夷派公卿の急先鋒であった姉小路公知がここで刺客に襲われた。享年25歳。現場に遺棄された刀の銘などから、薩摩の田中新兵衛のものと判明町奉行の尋問の最中、田中新兵衛は自害。 田中と同宿していた同藩の仁礼源之丞と藤田太郎の二人も逮捕されたが、脱走して行方不明となった。かくして、姉小路暗殺の真犯人は未だ不明のままである。

ここは以前ミステリー散策で訪れた際に述べましたが、御所の東北角は鬼門除けに隅を欠き(L字型)築地屋根の下に御幣を担ぐ猿の彫り物があることから猿が辻といわれています。この猿は鬼門封じの為、日吉山王神社から使わされたわけですが、夜に出歩き悪さをすることから金網に閉じ込められたと云われています。

鷹司邸跡から御苑内を北へ徒歩約10分。

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2006年2月23日 (木)

京都の新撰組 京都御苑 鷹司邸

鷹司家は5摂家の一つで、藤原北家の嫡流近衛家実の子・兼平を祖とする。京都鷹司室町に邸宅があったことから、鷹司が家名となった。御苑内の邸宅は丸太町通りに面する堺町御門を入った直ぐ北東側にあり、禁門の変の際に、長州軍の真木和泉や久坂玄瑞らの隊の侵入拠点となり会津藩・新撰組隊士の攻撃で炎上した。このとき久坂玄瑞・寺田忠三郎・入江九一らの多くの藩士が戦死した。

地下鉄烏丸線丸太町駅下車、丸太町通を東へ徒歩約5分

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2006年2月22日 (水)

京都の新撰組 本光寺

【伊東甲子太郎暗殺と本光寺】
1864年9月、藤堂平助と伊東甲子太郎は仲間10名とともに、新撰組に入隊するが、日を経るごとに、近藤、土方らとことごと意見が合わなくなり、1867年孝明天皇御陵衛士を拝命したのを機に、外部から新撰組を応援するという名目で同調者15名とともに高台寺月真院に屯所を構えた。これに対し、新撰組にとって、「脱隊は切腹」の建前から示しがつかず、暗殺に至った。その甲子太郎が絶命したのが本光寺である。

西本願寺から油小路通りを南下、七条通りを越えて少しいったところです。徒歩約6分

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2006年2月21日 (火)

京都の新撰組 仁和寺

言宗御室派総本山。本尊は阿弥陀三尊。平安時代前期第五十八代光孝天皇が創建に着手しその遺志を継いだ第五十九代宇多天皇によって仁和四年(888)完成した。仁和四年八月に落慶供養が行われたので、仁和寺と号することになった。国宝の金堂、重要文化財の五重塔、御影堂などがある。御室桜(通常の桜よりは遅く咲きます)は特に有名で、与謝蕪村が次のような句を残しています。

ねぶたさの 春は御室の 花よりぞ

<梅便り>
境内西側にある大黒堂前の紅梅一輪が咲いています。

境内自由(御室桜の時期は入山料300円)

JR京都駅から市バス26番で御室仁和寺下車

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京都の新撰組 西本願寺・太鼓楼

新撰組は池田屋騒動(1864年)以降、隊士が増え、壬生の屯所では狭くなったこともあり、1865年西本願寺に屯所を移し、境内北東にあった北集会所と太鼓楼を使用していた。西本願寺は元々長州との深い縁があり、幕府と対立し、西本願寺を頼りにしていた長州藩士を牽制するという一石二鳥をねらったものであった。北集会所は現在姫路市亀山の本徳寺に移築されている。

JR京都駅から徒歩約10分

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2006年2月20日 (月)

京都の新撰組 角屋

島原は江戸時代以来の公許の花街として発展してきた町で、寛永18年(1641)に島原の前身である六条三筋町から現在の朱雀野に移された。その慌しい移転騒動が島原の乱を思わせたところから「島原」と呼ばれる。現在で云う、料亭にあたる「角屋」・置屋(太夫や芸妓を派遣する店)の「輪違屋」が残っている。幕末の頃、新撰組をはじめ勤王佐幕を問わず各藩の志士たちで賑わった。尚、輪違屋は現在でも営業をしており、通常は非公開。角屋も同様ですが、角屋のもてなしの文化美術館は公開しています。問い合わせ。075-351-0024

角屋もてなしの文化美術館 入場料 1000円

JR京都駅からJR丹波口駅下車→徒歩7分

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京都の新撰組 壬生寺・壬生塚

律宗の別格本山で、通称を壬生地蔵、地蔵院、宝幢三昧院(ほうとうさんまいいん)という。地蔵菩薩を本尊とする名刹である。寺の境内が隊士の訓練に使われたらしい。境内の壬生塚には新撰組局長・近藤勇の胸像、芹澤鴨、平山五郎らの隊士の墓がある。八木邸の南にあります。

阪急電車四条大宮駅下車、南西徒歩約9分(八木邸から南へ徒歩1分)

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2006年2月17日 (金)

京都の新撰組 八木邸

越前国守護の朝倉一族で、朝倉家が織田信長に滅ぼされたとき、丹波の八木に逃れ、以来八木姓を名乗る。新撰組の屯所。近藤勇、土方歳三、沖田総司ら計13名が逗留。芹澤鴨一派が襲われ、鴨および愛人のお梅が絶命、平山五郎も死亡。平間重助は逃亡。新撰組は名実ともに近藤・土方体制を確立することになる。襲撃の際の刃傷が八木邸の座敷や鴨居に今も残されている。

阪急電車四条大宮駅下車、南西徒歩約8分(光縁寺から西へ徒歩3分)

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京都の新撰組 光縁寺

皆さんはよくご存知のことと思いますが、ここで少し新撰組について整理すると、 そも新撰組とは文久3年(1863)2月、幕府の肝いりと清河八郎の呼びかけに応じて浪士隊が、第14代将軍家茂の警護と京都の治安維持を目的として結成されたのが始まりです。2月8日に総勢230名あまりの浪士隊が、江戸を出発し同月28日に入洛したが、清河八郎の変節を機会に早くも分裂。京都に残留した13名の浪士たちが、京都守護職・松平肥後守お預かりとして新撰組を結成したのである。

<新撰組か新選組か>
会津藩公文書には新撰組とあるが、当時の隊士は手紙などには新撰組とも新選組とも書いていたといわれている。

<新撰組の旗>
赤地に白字で誠と抜き、下1/4が白地。

<新撰組の隊服>
浅葱色(ライトブルー)。浅葱色は武士が切腹の際に着用する正装で、武士たるものいつでも切腹できる様に裏地にこれを使用したが、新撰組はこれを表にしたのが、彼らの真骨頂といえるでしょう。ちなみによくテレビなどで見られる白装束は、結婚・葬式に着用されている

【光縁寺】
満月山普照院光縁寺(まんげつざんふしょういんこうえんじ)と称し、浄土宗の寺であり知恩院の末寺です。新撰組副長の山南敬介始め、幾多の新撰組隊士が埋葬されているなか一際、注目されるのは沖田総司の縁者の墓かもしれません。戒名などはキチンと書かれているがどのような人なのか分かっていません。住職いわく、沖田総司の囲われものではないかとの推理、はたしていかがなものでしょうか。住職はこうも漏らしておられます。「130年近く振り向かれることなく過ごしてきた仏様たちです。新撰組のブームで訪れる人が多くなったが、見学などはお断りをしています。ただ、先人の供養をしていただける人は断る道理がありません」と。お近くにお越しの時は、是非とも供養願います。合掌

阪急電車四条大宮駅下車、南西徒歩約5分

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